大飢饉からレストラン経営まで、脱北女性が赤裸々証言

2021年5月25日、北朝鮮の平壌にあるラングナン地区のナムサ生協農場で田植えをする農民たち。COVID-19の大流行によって北朝鮮の慢性的な食糧不足が悪化したことは疑う余地がない。北朝鮮のトップリーダーたちが正しい農業政策を策定するという「非常に重要かつ緊急の課題」を議論する準備を進めるなか、北朝鮮の慢性的な食糧不安に関する憶測が飛び交っている。(AP Photo/Jon Chol Jin, File)
By Andrew Salmon – The Washington Times – Thursday, August 14, 2025
【ソウル(韓国)】うなぎ料理を断る韓国人はほとんどいないだろう。骨を抜いて、小麦粉をつけて揚げれば、特別なご馳走だ。しかし、リー・エランさんはこの料理に手を付けない。「これを見ると、気持ちが重くなる」からだ。
1974年の運命の秋の夜、北朝鮮の平壌にある彼女の家族のアパートのドアを大声を上げながら叩く音がした。恐れられていた国家安全保衛部の職員だった。
彼は不機嫌そうに、官僚であるリーさんの父親が、北部の人里離れた険しい地形の両江道で「偉大な社会主義建設プロジェクト」のために必要とされていると家族に告げた。数人の男たちが押し入り、一家の持ち物を乱暴に梱包し始めた。
リーさんが真相を知るのは、後になってからだった。
1960年代末から70年代初めにかけて、当局は朝鮮戦争(1950~53年)で書類が紛失していた人々の調査を始めた。その結果、リーさんの父方の祖父母が南へ逃れていたことが分かった。
これにより、リーさん一家は快適な「忠臣」階級から、軽蔑される「敵対」階級に追いやられた。
平壌の比較的快適な地域から追放されたリーさん夫妻は、厳しい山間部の集落に流刑となり、多くの死者を出した1990年代の飢饉に苦しむことになる。
煎餅のカビを洗い流し、ジャガイモの皮のくず、灯油に浸した米、「家畜でさえ食べない」豆の茎を食べたこともあったという。
現在、リーさんはソウルの繁華街から数分の静かな丘の中腹でレストランを経営している。5月に自伝を出版した。「1つの食事、1つの記憶-北朝鮮料理の生き残りの味(One Meal, One Memory: The Taste of Survival in North Korean Cuisine)」だ。
リーさんにかかると、料理にまつわる言い回しも、新たな意味を持つようになる。苦情を口にすると、人は「蒸気が消えるように」姿を消してしまうのだ。
食べ物だけでなく、世界で最も隔絶された国内の状況を回想する。
賄賂の要求から個人への性的暴行に至るまで、「脂ぎった手」を持つ者たち、つまり党のエリートたちは特権を乱用した。抵抗した被害者は、自由を奪われ、投獄に苦しんだ。ある者は、偽りの罪状で、毎年、独房の中でひざまずくことを強要された。
「突撃隊」は軍隊ではなく、強制労働動員だった。作業は戦いだった。シダを集める「ワラビの戦い」、鉄道を建設する「生産の戦い」。
子供でも容赦はなかった。
授業は中止され、学童は山に追いやられ、蛇がいる生い茂った道をビビンバの材料を集めるために歩かされた。
逃亡しようとすると、人でいっぱいの地下の独房に閉じ込められ、皮のベルトで皮膚が裂けるまでたたかれた。家族からの賄賂がなければ、釈放されることはなかった。
リーさんは、大学進学の希望を口にすると、担任の教師からクラスの前で屈辱的な扱いを受けた。親が「卑しい生活」をしていて、無理だと言われたのだ。ショックを受け、自殺を試みた。
それでも、生き延びるために、必死で工夫を凝らした。
タバコのヤニやマッチの頭を傷口の消毒に使った。ケシの実を水で煮るとアヘン麻酔薬になった。生でんぷんは下痢止めに使われた。
農村追放はかなり辛かった。状況は1990年代に劇的に悪化した。
ソ連が崩壊した後、北朝鮮は特権的な貿易を失い、不作と洪水に見舞われた。その結果、人口の10%以上が飢饉で死亡した可能性がある。
リーさんの記憶は悲惨だ。
鉄道駅の外には荒んだ孤児たちが大勢いた。貴重な栄養源である茹でたネズミをめぐって争う集団がいた。飢えた少年に食べ物を与えようとする人々がいた。その少年は自分の目の前で死んだ。
自暴自棄になった女性が、1歳半の赤ん坊を託してきた。また、栄養失調の家族が鴨緑江に投げ捨てられた果物の皮を食べているのを目撃した。彼女は、餓死者の死体が町からトラックで運び出され、葬式もせずに山中に捨てられたことを知った。
飢えて幻覚を見た男が、9歳の息子を子豚だと思い込んで殺害し、煮込んだという話をした。
男は処刑された。
これらの恐ろしい出来事は、独裁者・金正日総書記が亡き父・金日成主席のために巨大で豪華な霊廟を建設し、テレビ放送が「社会主義の楽園」を称賛している最中に起こったことだとリーさんは回想する。
国家の流通システムが崩壊し、中国産の密輸食品から薪まで、さまざまな商品を売る闇市が出現する中、新たな言葉が誕生した。「社会主義を維持するためには、資本主義を実践しなければならない」
タンパク質と炭水化物を都合よく組み合わせたストリートスナック(油揚げの塊に米を詰めたもの)が発明された。
華やかな首都平壌でさえ、アパートのエレベーターや配管は故障していた。地下のトイレを使いたくない高層階の住民は、疲れ果てて紙に排泄し、バルコニーから道路に捨てていた。
リーさんは、卵を知らない19歳がいたことを回想し、飢饉によって定番料理がメニューから消えたと嘆いた。
「昔は、プルコギのような牛肉料理は北部では本当に有名でした。今は、ほとんどの人がプルコギの匂いすら嗅ぐことはありません」
1997年、リーさんは南に亡命した。
出される料理の量と料理の多様性に唖然とした。平壌では、外国人向け料理と言えば中華で、ロシア料理と「西洋」料理のレストランが1軒ずつあった。
ソウルでは最初、ステーキを食べることができなかった。「レアで血が滴り、牛肉に慣れていなかったから」とリーさんは振り返る。
母親は平壌で料理人をしていたことがあり、自身も「突撃隊」にいた頃に労働者のために料理を作っていたため、その経験を生かし、レストラン「農来飯床」を開いた。この店名は、平壌の大同江にある柳に覆われた農来島にちなんで付けた。
潘基文元国連事務総長やテリーザ・メイ元英首相も訪れたことがある。
今年出版された本は、他の脱北者の証言とは異なる部分に焦点を合わせた。
「政治的な刑務所や脱北についてはよく書かれますが、普通の韓国人には受け入れられにくい。人権について語るなら、食べ物の方が自然だと思ったのです」
料理家として活躍するだけでなく、脱北者として初めて政治家を目指して選挙に出馬し、落選した。2018年の平昌冬季オリンピックでは、参加した北朝鮮のチアリーダーたちを非難したが、無視された。
1990年代以降、北朝鮮の食糧安全保障は改善されたと広く信じられている。国連は、北朝鮮の人口2590万人のうち1070万人が栄養不良で、18%の子供が発育不良と推定しているが、飢餓については言及していない。
今年から、ロシアが北朝鮮に食糧を輸出している。
だが、梨花女子大学で食物栄養学を専攻し、北朝鮮の女性として初めて韓国の大学で博士号を取得したリーさんは納得していない。
「北には、状況を改善するための食料資源がない」と指摘、北朝鮮の地形が農業に向いていないことに触れた。